お世話になった子宝サイトが閉鎖になるということで、時の流れを感じております。
この10年でネットの世界は大きくおおきく変わったなあ。
一部のマニアックな世界がネコも杓子もの世界へ爆発的に広がる、その過程に生まれた奇跡のような渦だった。と思います。
その渦で過ごせた、出会いに感謝。
だから、というわけでもないけど、開きっぱなしで放置のサイトを久しぶりに覗いた管理人です。
短期妊婦の記録から気付けばもう10年も経っていました。
まさか後日談があろうとは、思わなかったけれども。
こないだあったんだこれが。
かなり不思議な話です。
私にとってはごく自然でした。へえ、と軽く読んでいただければ幸い。
ひとまずこちらに記録します。
知人に、人には見えないものが見える方が何人かいらっしゃいます。
ふつうに親しく気が合うので、ふつうにお昼だの飲み会だの機会を見つけてはご一緒してます。
私自身はちっとも見えない人ですが、整体師になり人の体に触れ、じぶん自身の体に対する見方も付き合い方も大きく変わって、人の存在は「肉体」それだけではない、と否応無しに実感しています。
目に見えて手に触れる部分が肉体で、気とかエネルギーとかも含めての「人」。
秋に入った頃。
肉体的には普段通り健康なのに、エネルギーがどうにも落ちていました。見える人には指摘されるし、自分でも自覚できる。なにしろ手が冷たい。
それからひと月ほど後、風邪をこじらせ肺炎に。
半月くらい静養して完治しましたが、肉体には現れないレベルの不調も、気にはしっかり現れていたということで。すっげえなあ!面白いなあ、気とかエネルギーとか。なるほど納得。
気やエネルギーの世界はある。のです。
肉体がある人も肉体がない存在も、木や草や風に魂を感じるように「ある」。
と捉えているのが、今の私です。
肺炎からの病み上がり後、その見える方含め、何人かとお茶したときのこと。
「さっきから、いなさんの側に、おむつの赤ちゃんがいるんだけど…」
と。はい?
「こっち見て〜って手を伸ばしてね、絵みたいにフリーズしてるの」
えーと、楽しい感じの人ですか?
「ううん。かたまってる」
思い当たるっていったらたまちゃんですよ。
でも、なんでまだこんなところに?
あの経験は、私はすっかり美しく消化して私自身になっていて、心残りはないと思っていたのに。
言われた方に視線を向けてみたら、
「あ、すっごいリアルな赤ちゃんになってきた。ニコニコ笑ってる。嬉しいみたい」
ってたまちゃん?
場所が場所ならそのままカウンセリングに突入していたかもしれませんが、満席の午後のミスドでそりゃあない。「自分でよくみといてね」「はーい」帰宅後につらつら観てみたのです。
って見えんけど。
食事の支度しながら内観。
たまちゃんのことは供養などはしませんでした。
数年経っても、ふとした拍子にスイッチ入って泣く私に、家人が「供養でもなんでもしていいから、もう忘れて」と言ったことがありました。
そう言われて、
ああ、この情動は、この体験をした女子にしかわからないものなのだな。理解を求めちゃいけないんだ。と悟って、
供養して忘れるくらいなら、私ひとりが黙って憶えていよう。と心に決めました。
私ひとりが黙って憶えていよう。供養なんかは要らない。私が死ぬとき、私がいっしょにお墓に連れてってあげるから。
そう思って、私が、たまちゃんをがっつり引き止めていた。
最近、私のテーマは「家族」です。春に仕事を辞めたのも、自分そして「家族」を考える大きな流れの一環です。家族の中で、自分の立ち位置や役割や…
そんなことを、ちからいっぱい考えていたのに、私は「家族」の中にたまちゃんを入れていなかった。
わたしが「連れてってあげる」と言った約束を守るために、じっと待っていてくれたのに。
こどもは生きてうまれてくれるだけで充分。生きていてくれるだけで嬉しい。というスタンスに導いてくれた、今の家族の基礎をつくったのは、間違いなくたまちゃんです。
それなのに、私は「家族」の中にたまちゃんを入れていなかった。
そう思った瞬間、頭で理解するより先に体が「正解」と応えました。目から水が、滂沱。
なんて酷いおかあさんだ。
もう、お母さんを待たなくていいよ。先に行ってていいんだよ。
きみはひとりで、先に行けるんだよ。
あのころ、お母さんはきみがひとりで行けるってことを知らなかった。
待たせてごめんね。引き止めて悪かったね。
どこに行っても、うちの大事な家族であることに変わりはないから。
どこにいても愛してるよ。
そう言ったら、ニコニコ笑って、ぴゅうっと天へ高くあがっていく赤ん坊の姿が見えるようでした。
たまちゃんのことは、悲しむ事でしか想えないとおもってました。
消化したつもりで、感情とともに蓋して凍結していました。
それは違った。
今は、笑って想えます。あの子もまた、どこかの世界で幸せに向かっているのだとわかります。
心拍も確認できなかった胎児以前の存在であっても、縁あってやってきたひとりの魂でした。
あれから10年。
ようやく、私はほんとうにあの子に出会えて、ほんとうにお別れをすることができたのでした。
何年経っても、「もう遅いからいい」ってことはないんだな。
今までの10年があっという間に書き換えられたみたいに、心のどこかが幸せに軽いのです。
ポコポコと浮かび上がって来る昔の感情をひとつひとつ整理して向き合ってクリアにすること。
いま、子供たちの中に私が日々刻み込んでいる感情、私が蒔いた怒りや八つ当たりは私の手で「ごめんなさい」のリセットをしていくこと。
おうちと同様、心身もお掃除の大事が身に沁みたりもするのでした。
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